障害を持つ同級生などへの過去の虐待を語った小山田氏、ユダヤ人虐殺を揶揄したコントを行っていた小林氏、どちらの行為も絶対に許されてはいけないこと。 しかし、過去の言動を振り返って、反省したり、自責の念を持つ行為が全くない人はどれだけいるか。過去に、何等かの間違いを起こしたら、二度とやり直せない社会であるべきではない。反省しているか否かが重要であり、過去の行為を反省する姿勢を見せていた小林氏と、障害を持つ同級生に犯罪ともいえる行為を行いながら、大人になっても自責の念を持つどころか自慢げに話し続けたという小山田氏では批判されるべき度合いは大きく違う。 ただ、過去の言動を反省している小林氏であっても、ユダヤ人虐殺を揶揄するという卑劣さから、平和の祭典であるオリパラのディレクターとして使われるべきではなかったし、反省の見えない小山田氏にいたっては、当然のことだと思う。 一連の動きの中で、一番の問題は、小山田氏の言動が発覚した後も、当初、組織委員会が、「本人は十分反省している」などとして小山田氏を解任せず、そのまま同氏の音楽を使用しようとした姿勢にある。 その後、民意の批判が相次いで、本人が辞任し、同氏の音楽も使われなくなった。しかし、小山田氏の言動を知った時点で、組織委員会は、オリパラでの使用はできないとすぐに判断し解任すべきであった。開会式が直前すぎて、仮に音楽の変更が間に合わなかったとしても、オリパラの精神に反する人の音楽は使えないと、音楽なしの開会式でも構わないとするくらい、断固とした姿勢を示すべきであった。本人は十分反省しているなどとし、留任させようとした組織委員会の対応から、同委員会が何の哲学も持たず、そこまで大きな問題にはならないだろう、開催に踏み切ればなんとかなるだろう、という姿勢であることが透けてみえる。民意の批判に押された後手後手の対応は最悪に映った。 哲学のないままオリンピックに向かうのは、コロナの感染が拡大する中、どんな目的でオリンピックを開くのか等、結局明確な説明をすることなくオリンピックに突き進む政府の姿勢も同じ。 開会式前から、会場近くのホテルのロビーで海外からのメディア関係者がマスクもせず、大勢で遅くまで宴会をしていても、怖くて注意できない、というホテル関係者のコメントも報道される中、憲法に基づく国会の召集請求を無視してまで国会は閉じられたまま。オリパラを開催すれば国民は喜ぶだろう、コロナ感染拡大の恐れも何とかなるだろう、雑音は聞こえないように国会は閉じておこう。。。そんな思惑が透けて見える。 哲学のない政府の判断に国民が翻弄され続ける今の政治を変えないといけない。一連の報道に触れて改めて思う。